鳥羽離宮跡の散策(4)

鳥羽天皇陵

 当院の西に接するように鳥羽天皇陵はあります。林に囲まれた中心に、今は写真のように小さい法華堂が建てられています。
 平安時代後期の保延5年(1139)、当時の鳥羽法皇(上皇)はここを自らの陵所に定めて三重塔を建て、落慶法要が厳修されています。 「子の刻、法華三昧の行法を始め被る。御供養導師は御室根本法華堂の善衆蓮光房經融。根本法華堂の燈を取り炭に付けて箱に入れて持ち下る。法皇、御手から内陣の常燈に挑み給る。その時の仰せに云わく「六人の外、他の人は入るべからず」 云々 」(台記、保延5年2月22日) その塔も今はなく、その後に現在の法華堂が建てられています。もちろん常燈もありません。
 保元々年(1156)7月2日「禅定仙院(鳥羽法皇)崩于」(百錬抄)、同日夜になって「御塔に渡し奉る。山陵に擬するなり。鳥羽院と号す。」(歴代編年集成)
 歌人西行法師は出家する前、北面の武士として鳥羽法皇に仕えていました。法皇の葬送に参加されています。
「鳥羽院かくれさせ給て、御葬送の夜、西行法師思はざる程に高野より出て、このことにまいりあいて讀侍ける
  『今宵こそ思い知るらめ浅からぬ 君に契りのある身なりけり』
 おなし夜よみ侍ける
  『道変わる御幸悲しき今宵かな 限りの旅と見るにつけても』
 御送の人々帰けれとも、ひとり残りいて、あくるまで御墓にてとふらいまいらせて
  『訪はばやと思ひ寄らでぞ嘆かまし 昔ながらの憂き身なりせば』」(著聞集)
 かつて仕えた法皇の葬送が終り、誰もいなくなったあとも、西行法師は一人この御陵に残り、夜明けまで弔いを続けられていたということです。
 外からは見えにくい位置ですが、法華堂の右横にある梅は、当時、僧侶たちが碁ばかりして修行を怠ったため、境内での碁を禁止して、碁盤を埋めその上に梅の木を植えて戒めにされた、ということで「碁盤の梅」と呼ばれています。現在の梅はその何代目かの子孫です。
 塔もなく、訪れる人も少なくなった現在の鳥羽天皇陵は、小鳥達の良い休息地となってメジロ、シジュウガラ、ウグイス、ヒヨドリ、ムクドリ、等が見られます。暖かい季節は、周りに巡らされた堀でザリガニを釣る子供たちをよく見かけます。良い思い出になることでしょう。


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