鳥羽離宮跡の散策(3)

鳥羽の宝蔵跡?

 鳥羽離宮の御殿には、多くの寺院が建てられています。南殿−証金剛院、北殿−勝光明院、東殿−安楽寿院、田中殿−金剛心院、という具合に。そのなかの北殿の勝光明院は宇治の平等院を模して造られ、保延2年(1136)3月23日落慶しています。今回の話題からずれますので引用しませんが、その時の記録は、中右記、本朝續文粋などに詳細に載っています。興味のある方はお調べください。さてこの勝光明院に付属する宝蔵が、知る人ぞしる鳥羽の宝蔵なのです。「蔵中には顕密の聖教、古今の秘籍、霊具珍宝の類充満し、天下無双の称ありき。・・中略・・、弘法大師嫡伝の十二合の聖教並びに道具類は当宝蔵に納められ、・・・」(密教大辞典)ここには弘法大師直筆で国宝の「高雄潅頂暦名」なども納められており、興教大師覺鑁上人も鳥羽上皇の許可を得て、納められている聖教などを閲覧されています。「然るに鳥羽の宝蔵は天下無双なりと云う、博覧のために拝見し奉らんことを、願うと奏せられしかば、院すなわち有司の上、北面に仰せて宝蔵を開かしめ、勅して此の宝物の中の所望に随って取るべし、とのたまう。上人、蔵中を見給うに、異国本朝の奇物重宝、更にその数を知らず。その中に大師等身の御筆の真影、同御筆の善女龍王の像、此の二幅を賜てい出たもう。」(密厳上人行状記巻中)
 久安2年(1146)8月23日、「是日、法皇御覧鳥羽勝光明院宝蔵所納宝物、即有被書目録、件目録、先年白川御所炎上之時焼失也、顕密之聖教、古今之典籍、道具書法、弓釼管弦之類、皆是往代之重宝也」(本朝世紀)、鳥羽法皇が宝蔵に入り、目録を作成させたのです。ところが非常に残念なことに、その目録は焼失してしまい、所蔵品の全貌は永遠の謎となってしまいました。応長元年(1311)「盗入鳥羽殿宝蔵、奪青葉笛已下物云」(續史愚抄前篇)、宝蔵には楽器も多く納められていたらしく、琵琶三面取り出すとか、青葉の笛が盗まれたなどの記録が見られます。この頃になると、火災にあったり盗賊に入られたりして荒廃し、応仁の乱の頃に、まったくなくなってしまったようです。
 当院の西300メートル程の所に、名神高速道路京都南インターチェンジがあります。その辺りは鳥羽離宮北殿のあったところです。ここに鳥羽の宝蔵があったはずですが、残念ながら場所は確定してません。鳥羽離宮跡を発掘調査している京都市埋蔵文化財研究所の報告書を読んでみると、建物跡や庭園の一部と考えられる汀と池を検出している、と書かれています。さてこの報告書に名神高速の南、国道一号線の東で、南北40メートル前後の文献に現れていない特殊な形の建物跡が検出されていると書かれています。この建物が宝蔵ではないかと想像されますが、残念ながらこれ以上の証拠がありませんので、想像の域を出ません。所蔵品の目録とともに永遠の謎になってしまうのでしょうか。なおその場所は、インターチェンジを南向きに出てきた所の左手で、道路と空き地になっていて、一部はラブホテルになっています、宝蔵が在ったところが、850年を経てラブホテルになっているとは興教大師覺鑁上人でも想像できなかったでしょう。ちなみにそのホテルの名は「となりのクル」、うーん、わけがわからない。(写真は建物跡の道路、右に空き地、さらに右にラブホテル「となりのクル」)


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