当寺は奈良朝以前、秦氏の一族秦和賀によって建立され、後に行基菩薩の関与により民衆のあつい信仰を集めた。
また今昔物語集巻十六第十六話等数多の古書に創建にまつわる有名な”蟹満寺縁起”が記され、仏教説話として広く世間に紹介されている。
本堂中央に祭祀されている国宝釈迦如来像は今から一千三百年の昔白鳳時代の名作で金銅座像、八尺八寸(2m67)、重量二千貫(七屯)と称する初唐様式を直模する堂々たる尊像で、しかも殆んど完全に近い原型のまま今日にいたり薄衣を透して美の重量性を発揮した豊満な肉体を刻出して要望は荘重であり端麗である。
螺髪と白毫をつけず人間味を帯びた相好で親しみを覚える。また手の指間には水掻の如き曼網相を具え生きとし生けるものをすべて悟りの世界へ救い上げるという形相が尊い。(以上蟹満寺発行のリーフレットより)
(写真は蟹満寺の正面より)
蟹満寺は謎の多い寺です。例えば本尊釈迦如来像、都から離れたこの地に何故これだけ大きい立派な仏様が祀られているのでしょうか。奈良の都から運んだ説や山城国分寺の像を移転した説などがありましたが、先年の境内発掘調査で何と90尺×60尺の白鳳時代と思われる大きなお堂らしい建物の基壇が出てきました。その建物の位置は、今の本堂の位置を一番奥として、前と左右に広がっています。ということはその建物で仏様が祀られていたとすれば、現在本尊様のお祀りされている位置とピタリと一致することになります。また今の寺を取り囲むように2.5町×3町の広い回廊跡が出ています。このような結果からすると、この本尊様はこの地にあった大寺院の本尊様として、最初からこの位置にお祀りされていたと考えるのが自然でしょう。ところでこの本尊様と常に比較されるのが、これも制作年代に二説ある奈良の薬師寺本尊ですが、鋳造技法上、蟹満寺の本尊様のほうが少し古いということが判っていますから、蟹満寺の発掘調査の結果は、薬師寺本尊の制作年代の議論にまで影響を与えています。
ますます謎が深まってきます。誰が何の目的でこの地にそんな大寺院を建てたのでしょうか。これまた歴史マニアの興味を惹かれるところです。
これについては、興味のある方はお調べいただくとして(NHK「平成古寺巡礼」でも紹介された)、もう一つ蟹満寺を有名にしているものに「蟹満寺縁起」があります。これは蟹の恩返しによって救われた娘さんのお話で、大寺院起源の蟹満寺とは全く異なるものですが、面白くよくできたお話で、時の権力者によって建てられた大寺院という側面とともに、民衆信仰を集めてきた寺院であることを示していて、重要であるといえます。御住職のご許可をいただき、この「蟹満寺縁起」を掲載させていただいていますので、ご覧ください。
「謎」といえばこの蟹満寺は、故山村美紗さんの「鳥獣の寺」の中で、蟹満寺の死、で殺人事件の舞台とし登場します。もっとも、この小説は住職、檀信徒の間では甚だ不評であったとのことですが。