南山城村は経済圏は三重県に属し、文化は奈良県に属するという特異性格を持っていた。
当寺は無量山春光寺と号し、現在は真言宗智山派(総本山は京都市・智積院)に属するが、江戸時代中期までは加茂町の天台宗真盛派の常念寺の末寺であった。それ以前については昭和二十八年の南山城村大水害のさいに庫裏が流出したためその来歴を知る手がかりはない。このため当寺創建等についてくわしいことは不明である。
だが唯一の記録として天台宗真盛派より真言宗に宗旨替をした当時の争論の記録「春光寺本末宗旨違顛末録」がある。
それによると寛政二年正月(1790年)の公義諸国出家山伏人別改の際に本寺より改帳の提出を促されたが、当寺は既に真言宗に宗旨替をしておるのでこれを拒否したため本寺、末寺の宗旨違の争論となり表ざたにされることとなる。一年有余の争論の結果、時の京都町奉行所の手により審議裁決されることとなり「常念寺末寺春光寺は現宗(真言宗)のままでよろしいが本寺、末寺の礼は従来通り尽すこと」と公明な裁決により当村(当時は大河原村)の勝訴に皈し一件落着となった、時に寛政三年五月(1791年)のことである。
(上の写真は寛政九年建立の本堂)
南山城大水害にかろうじて流出をまぬがれた現本堂は寛政九年八月(一七九七年)に再建されたもの。
当時は薬師堂と呼ばれており、安置されている本尊は木造薬師如来立像(像高一四六.七センチ)で昭和五十二年度に重要文化財に指定された。カヤ一木造りで平安時代初期(九世紀末)の作風を示すものである。一木彫像のなかでも奈良地方の様風を示すものとして名高い元興寺の国宝木造薬師如来立像の系統を引くもので、類品は少なく張りのある頬、幅の広い体躯など堂々たる出来映えで、かつ南山城という奈良文化圏での作品らしい特性顕著である。(以上の文は「春光寺のしおり」より、抜粋させていただきました。)
JR関西本線「大河原駅」で降り、歩いて少々汗をかいた頃、ようやく山の麓に当寺が現れます。ご住職の案内で本堂に入りました。この本堂は平成10年3月解体修理が終了し新しい瓦がまぶしく輝いています。何度もこちらには寄せていただいてますが、初めてゆっくりと本尊薬師如来像を拝ませていただきました。均整のとれたお姿、この田舎(大変失礼)に、このすばらしい本尊様、思わず疲れを忘れてしばしのあいだ手を合わせました。当寺に参拝される方は、ご住職にお願いして、ぜひ本尊様を拝んで下さい。
(下の写真は重要文化財指定の本尊薬師如来立像)