最近わたしは、知り合いの修験さんに誘われて、大峰入峰修行をさせていただきました。
普段は平地で、のんべんだらりと生活しているせいか、自分の気持ちの中では、本当に登れるのだろうか?という不安でいっぱいでしたが、いざ山の入り口から登り始め、そして次第次第に頂上に近づくにつれて、心中の不安はどこかに消し飛んでしまい、いつのまにか山と自分が一体になったような気がしました。
それは、歩む一歩一歩、大峰の山が受けとめてくれ、自分が歩いているのか、山が自分を運んでくれるのか、無我夢中で歩いていると、突然、眼前に頂上が立ち現れてたのでした。その時、いままでの苦しさがスッと抜け、その山全体が自分を暖かく包み込んでくれているような、そんな大きな安堵感を覚えたのです。
最初、山は自分と大きく隔たりがありました。山が自分を受け入れてくれたと感じたのは、山が自分にそうさせたのでなく、自分の心が山の自然と調和したとも言ってよいのかもしれません。
修験さんと山
修験の人たちは山をとても大切にしています。常に山の神さまに祈願をし、山の神さまにごきげんをうかがいます。そして、同じ山に入った人々を暖かく迎えます。それは修験さんたちが、山を畏怖し、また山の大きな慈愛を十分感じているからでしょう。
また山で人と人とが出会うと「ようおまいり」という言葉をかけあいます。それは、大峰という神聖な霊山に足を踏み入れた者は、すべて仲間であり、お互いが山のおかげを受けていることを確認しあうところから出る挨拶ではないでしょうか。
最近は、町中で暮らしていると、会う人会う人知らんぷり。共に挨拶をすることは、親しい人でないかぎりめったにありません。
みんな自分のことで精一杯なのでしょうか。せかせか歩いて、まわりを見渡すことさえもないのかもしれません。
また、わたしたちは文明の利器に囲まれて便利な暮らしをしています。便利であるが故に、自分がさまざまな人たちの力に支えられて生きていることが見えず、常に自分の力だけで生きているという錯覚に陥っているのではないでしょうか。
山に登るとまず分かるのは、自分の力だけで登っているのではない、ということです。それは出会う人の励ましであったり、あるいは山からもたらされる恵みであったりします。
わたしたちが普段の暮らしの中で見失っているもの。それは山に入ってはじめて気づかされるものが多くあるのではないでしょうか。
弘法大師は、真言宗をお造りになる前に、たいそう山岳修行を為されたそうですね。今も、四国八十八カ所霊場で、山奥にある太龍寺には、お大師さんが修行されたと伝えられる行場が遺されています。お大師さまもたいそう山が好きだったようです。
弘法大師が書かれた『性霊集』というものの中に、ある人が何故、山の中に何か楽しみがあるのか?という問いに対して答えられたお言葉があります。それを今の言葉に直してみると、次のような意味になります。
「山鳥がさえずり、山猿が飛び回る姿は、人伎以上のものである。春や秋の草花をわたしにほほえみかけ、明け方の月や、早朝の風は、自分の中の煩悩を清めてくれる。」
これは山修行を重ねたお大師さまだからこそ、言える言葉でしょう。
わたしたちが見失いかけたもの、それはお大師さんがおっしゃられるように、鳥や花がわたしたちに話しかけているものを素直に受け取れる、その大きな感受性ではないでしょうか。
人と人との心の会話や自然の息吹を受け入れられる素直な感受性。
今、わたしたちが求めなければならないのは、その心の感受性であるかと思います。
みなさんも一度、大峰に登られたら如何でしょうか。