分かっているけどやめられない!

 皆さん、こんな歌を覚えてらっしゃるでしょうか。

チョイト一杯のつもりで飲んで
いつの間にやら ハシゴ酒
気がつきゃホームのベンチでゴロ寝
これじゃ身体にいいわけないよ
わかちゃいるけど やめられねぇ

 そう、これはかつてクレージーキャッツで活躍された植木等の「スーダラ節」の一節ですね。実は、私も、お酒が嫌いな方ではありませんから、何度かお酒で失敗したことがあります。 私の所属している研究所の先生方もけっこうお酒がいける方であり、仕事が終わって、「さあ一杯やりましょうか」というお誘いのもと、赤ちょうちんへと直行する具合であります。最初のうちは、ほどほどに、と思っていても、ついついもう一杯と杯が進むにつれて、「あもうとことん行こう」なんて調子にのってしまいます。
 あげくの果てには、前後不覚の状態になり、山の手線で何回もぐるぐると乗り過ごすはめになったりもしました。
 最悪なのは、次の朝、二日酔いならまだましで、三日酔いなんてこともあると、「もう絶対酒なんか飲むものか」と心の中で誓っていても、身体の調子が良くなると、また相も変わらず、赤ちょうちんに誘われてしまいますから、本当に「わかっちゃいるけどやめられない」という言葉が身に染みてしまいます。

お釈迦さまの悩み
 お釈迦さまは、菩提樹の下で悟りを開かれたときに、その悟りの法味をしばらく味わられて次のようにお考えになられました。
 「さてさて、わたしがここで悟った内容は非常に深遠なものである。一般の凡人は世俗の楽しみに埋没してしまっているそんなかれらに果たして、私が悟った真理を理解できるであろうか。」
 このようにお考えになられたときに、この世界を治める梵天さんがやってきて、お釈迦さまに次のようにお願いされたそうです。
「お釈迦さま。どうぞ世間の者たちに説法をしてください。確かにお釈迦さまの悟った内容は非常に深遠でありますが、世間の人々の中にはその教えを理解できる人もいます。どうか法をお説きください。」
この梵天さんの願いによって、幸いにわたしたちはお釈迦さまの教えに触れることができたわけです。

無明について
 無明という言葉を、その字義通りに表すならば、明(インドの言葉でヴィドゥヤー[vidya~]智慧)が無いということです。
 確かに、私たちは学問を身につけることによって、さまざまな知識を獲得することによって、生活水準を向上さすことができます。
 しかしながら、りっぱな学問を身につけたからといって、幸せになるわけではありません。どんなりっぱな知識があったからといって、生きていく上での苦しみはなくなりません。わたしたちは、この苦しみの根本的な原因となるものをなくさなければ、本当の幸せを得ることができないのです。その苦しみの根本的な原因こそが、まさに無明ということであり、その無明を滅してこそ、本当の楽を獲得できることになるのです。

真言は不思議なり
 お経のはじめに懴悔の文というものをおとなえします。それは
 「我造るところの諸々の悪業は、皆無始の貪瞋癡に由る、身語意より生じる所なり。」
 とあります。わたしたちがもっている無明というものは、懴悔の文にあるように、いつ始まったかわからないほど遠い過去から造られた悪い業の積み重ねの根本に横たわっています。だから、頭で考えて理解しただけでは、簡単に無くなるものではありません。
 いくら頭でお酒の飲み過ぎは身体に悪いと理解できても、やっぱり簡単にやめることができないのです。まさに、無明というものは「わかっちゃいるけどやめられない」存在なのです。
 では、そんなお釈迦さまでさえ、説法を躊躇してしまう、いたらないわたしたちは、どうやって救われることができるのでしょうか。
 弘法大師は次のようにおっしゃられています。
 「真言は不思議なり観誦すれば無明を除く
  一字に千理を含み即身に法如を証す」
 真言というのは仏様の真実のお言葉です。そのお言葉には、無量の意味合いが含まれており、もし、その真言を感得するならば、わたしたち凡人であっても無明を除くことができるという意味です。
 わたしたちは、お釈迦さまのような、悟り得ることができるようなりっぱな人間ではありません。しかしながら、そんな凡人でも、お大師さまは、救われるますよ、と保証して下さっているのかもしれません。

(金本 拓士記)


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