宇宙即私(三密加持すれば、即疾に顕わる)

わたしたちは、一体宗教に何を求めているのでしょうか。幸福?幸せは誰でも望むものです。でも、それは宗教だけに限ったことではないでしょう。科学の進歩だって、経済の発展だって、すべて幸せになりたいからではないでしょうか。そう、確かに幸せを求めることも、宗教の一つの機能かもしれませんが、今、ここにこうしている私は本当にわたしであること。そして、何故私はこうして、この、日本という地域にいるのか。現代という世界の中で、わたしは、何故わたしとして生きなければならないのか。そして、わたしは死んだら、わたしはわたしでなくなるのだろうか。そんなわたしがわたしであることを納得するために、宗教はあるのではないでしょうか。
 そんなわたし探しの道筋を、いろんな宗教が提示してきました。キリスト教にしても、イスラム教にしても、はたまた仏教も、そのまたいろんな宗派の開祖たちにしても、そうであろうと思います。
 それでは、真言宗はその道筋をどう考えていくのでしょうか。
 今回は弘法大師空海の著作の中にある言葉を引いて考えてみましょう。
 表題に出しておきました「三密加持すれば、即疾に顕わる」という言葉は、空海の『即身成仏義』という著作にある言葉です。「即身成仏」とは、この身このままで仏となることと教えられています。この身このままで仏となるということは、わたしがわたしのままで、この世界の在り方と相即不二であることを悟り、またそのものとなることかと思います。
 それでは、その『即身成仏義』の中の言葉、「三密加持すれば、即疾に顕わる」とは、何を意味するのでしょうか。
 「三密」とは「身密」「口密」「意密」の三つを言い、それは、如来の在り方を意味します。それに対して我々凡夫の在り方は、「三業」と言い、「業」とは働きを意味します。つまり、「密」は秘密の密であり、仏の働きは凡夫にとっては、測りしれないわけですから、秘密ということになるのでしょう。
 さて、問題は、われわれが如何に、如来の「三密」を獲得できるのかどうかということです。要は、我々凡夫の「三業」が如来の「三密」となればいいのです。
 では、どうすれば、「三業」から「三密」に展開できるのでしょうか。そのキーポイントとなるものが、「加持」という考え方です。
 「加持」という言葉はインドの言語のアディシュターナの漢訳です。アディとは「加える」という意味。シュターナは「位置づけられた」あるいは「場所」という意味ですが、弘法大師は、この「加持」の意味を「加」を仏からの働きかけ。「持」をわれわれ凡夫が仏の働きを受けとめ、持つことであると言います。
 仏の働きかけとは、つまり世界の存在の根元体としての大日如来からの働きかけです。いったい、そんな働きかけなどあるのかと疑うかもしれませんが、素直に考えれば、わたしたちが、今、この世界にこうして生きていて、また現在の世界の在り方がこのようにあるということ自体が、何らかの力からもたらされているのではないでしょうか。われわれが生きている自然環境は、そのひとつひとつが独自に活動しているのではなく、自然環境全体の有機的な関連性があってこそ、それぞれの生態系が保たれているわけですね。その自然環境全体を維持せしめているもの、その働きかけを大日如来という仏に象徴さしているのです。そして、その世界を世界としてあらしめている力は、当然、今、われわれの存在そのものとして、反映しているわけですから、われわれの側から、ある手続きをもって働きかけ(「持」)ることによって、世界を世界たらしめている働き(如来の「加」)とが統合され、その結果として「即疾に顕わる」わけです。
 「即疾に顕わ」れた結果が、すなわち「三業」から「三密」への転換ということになるのでしょう。
 以上、密教の「即身成仏」の考え方を簡単に解説してみました。詳しい話は、またそのうち!

(金本 拓士記)


このページのテキストおよびグラフィックの無断転載を禁じます
Copyright (C) 1996-1998, Ryoshu Saito. Kyoto, Japan.