第3回 即身成仏のお話
『菩提心論(略称)』に曰く、「もし人仏慧を求めて菩提心に通達すれば、父母所生の身に、速やかに大覚の位を証す。」(仏の智慧を得て悟りを得ることを願い、教えを学び修行する機会を得たならば、父母より頂いた、この身このままで成仏することができる。)
この文章は即身成仏を端的に著す名文です。
第1回で即身成仏が真言宗の教えの中で、最大の特徴であるとお話しし、前回は成仏についてお話ししました。そこで今回は、即身成仏についての概略をお話ししようと思います。
(1)即身成仏は本来成仏
迷える存在である私達衆生と、悟りの存在である仏は、どのように違うのでしょうか。
初期の仏教においては、教主である釈尊を尊敬するが故に「衆生と仏は異なり、衆生は仏にはなれない」とまで考えられました。いわゆる阿羅漢です。
しかしやがて、大乗仏教になると、出家者以外の在家信者にも悟りへの道が開かれ、すべての衆生に成仏が可能であると説かれました。
しかし、大乗仏教に於ける成仏は三劫成仏と呼ばれ、永遠にも思われる長い間、何回も生死輪廻を繰り返し、修行を重ねた結果、やっと仏に成れると説かれました。
また、この成仏観は、「本覚思想」という、「私達は元々悟っていたのだ」という思想が基本になっています。
衆生といえども本来は仏であった。
しかし衆生は、成長し、日々の生活の中で、自我意識が芽生え、自己を中心とする価値観によって、本来輝いていた自分の中の仏の種に煩悩という苔がつき、やがて輝きを失い、迷いの衆生となってしまったのです。
本来仏であった本覚の上に、客塵煩悩(きゃくじんぼんのう)という苔がついて衆生になってしまいます。
即身成仏を説く密教においても、この本来の成仏が重要視されます。
いまの自分とは違う仏に成ろうとするならば、いまの自分を理解し、仏とは何かを理解し、そして仏になる教えと修行を実践、理解しなければなりません。
しかし、本来成仏、私達が本来仏であったならば、その本来の姿に戻れば良いのです。
子供の目は輝いています。何事も素直に受け入れ、素直に感動する子供の目はきらきらしています。でも、自己の価値判断により行動する大人は、素直に物事を考えられず、その目に輝きはありません。
自己の価値判断が、私達の悟りへの道を閉ざしているのです。
本来成仏、素直に物事を感じられたら、悟りにちょっと近づけます。